「…ティア?」
「あ…ごめんなさい。起こしてしまったわね」獲物を抱え込んだまま眠っていたガイが薄く眼を開けていた。「どうしたんだ?」そう聞かれて、一瞬自分で答えに迷ってしまう。
「少しだけ、エルドラントを見て回りたいの。駄目かしら?」
「いや…ああ、あまり遠くへ行くんじゃないぞ」
「分かってるわ。起こしてしまってごめんなさい」
「いいさ」
そう返すと、そのままガイは目を閉じた。次に日が昇れば、兄と対峙することになるかもしれない…だから気が昂っているのかもしれない。敵地での長時間の単独行動は危険だ。ガイに言われたように、少しだけ、ほんの少しだけ体を動かそう。
夜明けも近いエルドラントは薄暗かったが、不思議なくらに足は戸惑わずに動いた。それは、ここが私の生まれるはずだった場所だからだろうか。白い大理石の床石を踏んでいくたびに、じわりじわりと積み重ねられるこの想いはなんだろう。それは白雪のように深々と、そして、泣きたくなるほどに懐かしく。
しずかな宵闇を歩いていると、小波がきこえた。近くから海が見えるのだろう。足は自然とそちらのほうに向いた。さああ、さああ、と行き来する波音が耳を打つと、心までが静まり返る。
そして、
海が見えた。
わずかに太陽がのぞく水平線。オレンジの光が海に潜って、きらきらと海面が輝く。ああ。ああ。
積載した感情が震える。初めて海というものを見たように。出会ったばかりのルークもこれほどに、心を震わせたのだろうか。私はこれまでこんな風景に出会ったことがあっただろうか。…いや、そうでありながら、このふるえる心はこの風景と邂逅したことがあると叫ぶ。
それは、私の中にしか存在しない風景。わたしの原風景とでも呼ぶべき、生まれるべき場所、帰るべき場所。あの輝きの中に帰りたいとこの胸は叫んでいた。あのオレンジ色のひかりの中に。
「美しいだろう」
はっと我に帰る。聞き間違えるわけがない、振り向いたそこに居たのは、兄だった。ヴァンデスデルカ・ムスト・フェンデ、ホドの写し絵であるここエルドラントを作った張本人。私は隠し持ったナイフを彼に向けている筈だった。でも、私はそうしていなかった。兄はそれを見て笑う。
「何をしている、メシュティアリカ。私でなければ死んでいたぞ?」
「どうして…」
「どうして?」
「どうして、そんな風に、昔みたいに笑うの?兄さん」
兄の笑みを私は知っていた。幼い私が外殻大地に向かう兄を引き止めるとき、しょうがないなティアは、と兄は困ったように笑っていた。今みたいに。記憶の中にしか存在しない、昔の、優しい兄のように目の前の男は笑っている。
兄は数歩歩み出て、私のように夜明けの海を見つめる。私は動かない。兄は目を細めた。眩い光を受け止めきれないかのように。
「メシュティアリカ。私はね」
「お前に、この風景を見せたかった」
「それだけだ。本当に、それだけだったんだ」
くるりと兄が背を向ける。一瞬だけ交わした瞳、私と同じ蒼い瞳の輝き。兄はもう振り向かなかった。去っていく彼の背中を、私は見送る。兄の背中、遠かった背中、私が知らない重すぎる運命を背負ってきた背中。
さようならメシュティアリカ、
そう彼の背中は言っていた。
さようなら兄さん、
私はそう胸の中で呟く。
さようなら。